所感と書感たち

読書に限らない感想文。じぶんの記憶がアテにならない!だってわたしは人間だもの。せっかく読んでも思ったことはどんどん消えてゆく。 むずかしいことは書きません書けません。小学生っぽくやります。本じゃないのも混ざります。最近何考えたか読んでくれる人はぜひ。なくてもいいけどあってもいいもの。Tumblrからお引越し

お芝居 mimimal⑥『outside of<A bit onlyyyyyy...y>our outline』

新宿眼科画廊スペース。グーグル検索をする前の私、若干の疑問。眼科に画廊があんのか。院長どんだけ芸術好きなんだ?相当な変人?いやでもポーラ美術館とかあるし…ポーラなのに美術館的な。「ポーラは芸術を発展させますよー」みたいなきぎょうかつどう。うーんでもなあ、大企業のポーラがやるのはわかるけど、新宿眼科っていうこぢんまりしてそうなのでも画廊って開くのかな。いや、眼科が小さいだけで実は管理者大金持ちだったりして。そうだよね、聞いたことないけどすごい会社もたくさんあるっていうし。「日本には知られてない優良企業たくさんありますよ」というのは、enが言っていた気がする。貸し会議室だって居酒屋が運営してるようなところあるしな。やっぱビル持ってると強いよなあ。


新宿眼科って名前、なんの変哲もなさ過ぎてほんとにあるのかな?と思う。「新宿○○眼科」とか「□□アイクリニック」とか、苗字入れたり名前入れたり、あとは、ハートとかわかばとかそういうのついててもよさそうだけど。新宿という地名はひとつしかないわけで、ネーミング早い者勝ち競争がその昔繰り広げられたのかもしれない。見事に「新宿」を冠する権を手に入れた初代の院長から、新宿の地で皆様の目の健康を守っておかげさまで開業ん十年!の老舗眼科だったりして。90の大先生はいまだに現役、先生はいまだに大先生になにかと怒られっぱなし、若先生はかえってしっかりしている。そういう沿革ありそう。


ああもう、さっさと検索すればよかった。

新宿眼科という眼科はない。「新宿眼科画廊」という名のスペースでしたよ。とんだ妄想だった。でも楽しかった。


8月28日。新宿駅の東口を出て、紀伊国屋のそばを通り抜けて、新宿遊歩道公園~四季の路~を遊歩して、というよりはずんずん歩いて、こんなとこ1人じゃ絶対来ないだろうなーっていう街並みを横目に、たどり着く。

「いつ来ていつ帰ってもいいよ」というのは聞いていたけれど、やっぱり扉が閉まってて、役者さんが喋っているといや芝居してるんだから喋ってるのは当たり前なんだけど、ちょっと「開けていいのかな」っていう気になる。「演奏中の入退場はご遠慮ください」という注意書きをさんざん見てきた癖もあると思う。あとは、単に小心者。

役者さんが喋っている横を通り過ぎて、チケットを買う。てっきり扉の前に座ってる人がチケット係だと思っていたから少し面食らう。うそーん。

壁際の寄りかかれる席に陣取ってしばらくすると、コーヒーとクルミパンをいただいた。紅茶派の私ですが砂糖とミルク入れればコーヒー飲めるようになりました。えっへん少し成長したでしょ?と調子に乗っていたのもつかの間、真っ白い舞台で真っ白い洋服を着てる女性が喋り出していたのでそちらに気を取られていると、ガムシロップを開けた次の瞬間盛大にそこに指を突っ込んだ。ガムシロップはちゃんと見て開けないとだめだわ。恥ずかしい。恥ずかしさをこらえて冷静なふりをしながら観劇開始。

ここまでは日記だ、日記。




○と●と◎って何て呼んでいいのかわからないけど、私が座って観ている空間は2人になったり3人になったり。白い棺みたいな台の上には白砂と女性が乗ってて、男性は下で死体になったり立ち上がったり喋ったりしていた。2人はそれはそれは自由に喋ってた。場面もいつの間にか変わるし、1人1役って感じでもない。例えば、○を複数の人が演じるけど、○という役をやってるといろんなものに変わっていっているような感じがした。4人で1役をやってるけど、その1役にはいくつもの役が詰まっていると言えばいいのだろうか。

それから、  胸式呼吸か腹式呼吸かわかんない感じで「ひゅあー」って息をするところと、「~と、と、と」っておんなじ文字を何回か言うところがなんとなく好きだな。テキストを読みながら観ていると、ほんとに忠実に喋っていることがよくわかる。ぱっと見たときに句点が多いなと思って、実際に演技を見てやっぱり句点が多くて面白かった。私たちってふだんこういうふうに喋っているんだろうな。言葉に詰まったり言い直したり、変なところで発語を止めちゃったり。はたまた「」の中も外もぜんぶ同じように喋っていたり。例えば……壁にはミニマルな絵、白いキャンバスに、横に線が引かれているだけの絵が、かけられていて、中央に、男が転がっている。←というのを、なんのテンションも変えずに喋るのだ。

他にも面白いことがあった。

人員交代も客の前でものっすごく堂々と行われる。「食べたいものあったら買ってきていいよー」「やったー」「お金後でいい?」「良いですよ、行ってきまーす」みたいな流れで、白い台の女性はふつうに出ていく。で、白い台には別の女性がいて、何事もなかったかのようにまた同じ芝居を繰り返していく。白い台の上に乗った女性は、「これから演じますよサイン」のようにみんな白いシャツに着替える。客の前で。それから、両手をつないでお互いに前かがみになって、白いシャツが女性と男性の間を移動するシーンとか何回見てもなぜだか妙に面白かった。よく考えたな、その人員交代。よく考えたな、その着替えみたいなシャツの移動。そして白い台に乗る女性はなんかちょっと…なんだろう、妖艶?ではないな、なまめかしい?っていうのも違うし、、派手じゃない自然な感じの官能さみたいなものがある気がした。無理やり一語で説明しようとしなくてもいいか。化粧っ気はないけど、女性ですっていうオーラがすごく出てる感じ。露出があるわけではないのにね。大きい白シャツで「彼氏の借りちゃった風コーデ」効果もあるかも若干あるかもしれないけど、でもそれだけじゃないと思う。ううううらやましい。

たまに出てくる3人目の人の体にはマジックでセリフが書いてあるし、その人は喋りながら私の隣の席に座ってくるし、それで白い台の方向いて客っぽい姿勢でセリフ言ってるし、客のいる空間の隣では日曜大工をやってるような音が聞こえてくるし、白い台の前で死体になったりなんだりしてる男性は演技なのか本気なのかセリフが飛んでて、それをたまに来る3人目の人がフォローしてる回もあった。


あらゆる区切りや境目を、極限まで減らしたいのかな。

句点をたくさん使って、演劇をしてる感じと普段のお喋りの感じをできるだけきっちり分けずに近づかたかったのかな。でも不思議。区切る道具である句点をたくさん使うことで劇の時と普段を区切らない努力をしてるように感じる。セリフと地の文も、「」で分けたくなかったのかも。そして、前の回と今の回と次の回の間にインターバルは入れない。入れたら区切られちゃうから。インターバルは入れないから、人員交代も芝居の中に取り込む。白いシャツの移動も、一瞬も人間の肌と触れ合わない時間がない。触れ合う時間と触れ合わない時間があると区切られちゃうから。マジックで体にセリフ書いて、台本とそれを持つ手の境目をなくしちゃおうとか。

日曜大工っぽい音は、客の、観劇している時間とそれ以外の時間の区切りをなくすのに一役買っていそう。セリフが飛んだのは台本どおりなのか実はハプニングなのかはわからないけど、あのシーンがある(回を観劇できた)おかげで、稽古と本番の境目が減る瞬間を目撃できたのかもしれない。客は飲み食いしながら観劇する。飲む、食べる、といった生活の中で大事なことと、観劇というできなくても命には関わらないことを結びつけてる感じがする。いのちを保つのに絶対必要なことと、絶対に必要とはいえないものの区切りを減らす。

私は、絶対に必要とはいえないものも生活の中で大切な要素になるのだと思っています。と信じています。これからもこれは変わりそうにありません、たぶんぜったい


テキストがもらえたから、読み返せる。読み返せると、感じることが増える。そりゃそうだって、観て全部は覚えられない。テキストはとても細かい字でびっしりと書いてあって、なんでこれ覚えられるんだろうって尊敬の念が生じる。どうやって覚えているのだろう。ふしぎ。そこらへん聞いてみたい。みんなすごい記憶力なのですか?

散々区切りを減らす話をしておいてあれだが。部分的にフッと切り取ってみると(ああ、せっかく区切りのないものに境界線を私が入れてしまった!ワンホールのケーキにナイフを入れるみたい。入刀!)全然ぶっとんだ話じゃないところもたくさんある。

目を見て話すの苦手?って言われたことあるし、「電話もメールもLINEもtwitterfacebooktumblrinstagramも連絡取れない」ってニュースで聞くし(恐ろしい世の中だ)、かわいい子かどうか・好きだったのか・元彼はどんなだったかって常に大きな話題だし(いわゆる恋愛話)、防災訓練はいつも一緒に帰るメンバーとは違う編成で帰った思い出あるし、「今日会社休みます」って世の中の女性きゅんきゅんしてたみたいだし、ホームレスとか露出狂とかっているものだし、どうやって死にたいかって考えたことあるし(私は痛くなく死にたい)、おじいちゃんじゃないけどおばあちゃんが心筋梗塞じゃないけど糖尿病で死ん、亡くなったし、悲しいけどナイフで切り付けとか通り魔も起こっちゃうし、電車は緊急停止ボタンで止まるって1週間に1回はあるし、「遺体は死後3日ほどたっている模様」って2時間ドラマでよくあるセリフだし、アイドルの同じCDを何枚も買う人見かけるし、

こんなに見たこと聞いたことやったこと経験したことが要素としてたくさんあるのに、どうしてこの作品はこんなにぶっとんでるんだろう。やっぱりA国とB国のめっちゃ怖いおとぎ話みたいなのが効いてるのか。でも、ぜんぶその話だったらすごく重いというか、観た後にここまでいろいろ考えなかったと思うの。調合がうまいのかな。そういえば誰かが言っていた。もう新しいメロディーラインを生み出すのは限界に近づきつつあって、音のあふれてる時代で、自分が考えたメロディーだと思っててもそれは街で流れている音楽を無意識のうちにインプットしちゃっていて、知らない間に自分の中に入ったメロディーが新しい曲を書くときに作用しちゃうって。これからは聞いたことあるメロディーどうしをうまくつなげて新しい曲を作っていく時代だって。そのつなぎ方がうまくないと、聴く人が似てると感じちゃう。これと似ているのかもしれない。すごいな、いいな。何にもないところから造物主みたいに生み出していく人は言うまでもなくすごいけど、あるものをつなげて新しいの作れるひともすごいと思う。くー、うらやましいぜ。冷蔵庫の残り物で料理するのが精いっぱいだぜ。

百日紅御一行様のときにも思ったことだけれど、理解するのは、無理だと思うの。でも、そう思ってるからこそ観に行ける、「これわかるようにならないとやばい」って追い込まれないから、素直に観に行けるし素直にいろいろ思うことができる。そういう意味でも、生きていくうえで絶対に必要とは言えないけど大切なことだと思うのです。頭の中を台布巾で拭くくらいのリフレッシュは可能となる、良い時間になると思うのです。



区切れ。区切れ。区切れ。区切らぬ。区切らぬ。

咳をしてもひとり/句切れなし。区切れない。


だれかと何かを一緒にやるって、いいな。私も誰かと何かしたい。