所感と書感たち

読書に限らない感想文。じぶんの記憶がアテにならない!だってわたしは人間だもの。せっかく読んでも思ったことはどんどん消えてゆく。 むずかしいことは書きません書けません。小学生っぽくやります。本じゃないのも混ざります。最近何考えたか読んでくれる人はぜひ。なくてもいいけどあってもいいもの。Tumblrからお引越し

ルネ・デカルト『方法序説』

たとえどの意見により高い蓋然性があるのかわからない場合でも、やはりどれかに決めるべきであること。

なるほどたしかに。「実生活での行為はしばしばどんな猶予も許さない」んだから、とにかく決めて、それを頼りに進んでいくことが必要な時もある。

何が良いのかわからない、なんていつまでも迷ってはいられない。

優柔不断な自分に喝を入れられた気がした。

一方で、「私がそれまで私の信念のうちに受け入れてきたすべての意見については、一度きっぱりとそれらを取り除こうと企てる以上に最善なことはない。しかるのちに、もっとよい意見を取り入れるなり、同じ意見でもそれを理性という水準器で正したうえで取り入れればよい」ともデカルトは言う。

鵜呑みではなくて自分で理解や判断をするって短時間で出来ないときもあるだろう。

えいっと決めて動く・よく考える、それらのバランスが大事ということか。


本の内容も、この本を知ることになった授業も、いまでも忘れられない。

素晴らしい先生の授業を取れたと思った。

哲学って難しそうで、今まで全然読んでこなかった。でもこの授業で、わからなくても少しずつチャレンジしようという気持ちになれた。

ちょうどその授業を取っていたとき自分にとっては大きな悩み事があって、担当の先生に相談させてもらった。

というのも授業では毎回感想や疑問を自由に書くレビューシートみたいなのがあって(大学ではレビューシートの内容も評価の対象になることがままあるが、評価を意識して書いた覚えはない。毎回自由に書かせてもらった。ひょっとしたらこの授業も評価対象だったのかもしれないがシラバスを覚えてない。そういうわけで「みたいなの」なのです)、あらかじめ相談事をルーズリーフに書いて授業に行って、とある回の授業時にレビューシートみたいなのと一緒に出してみた。

今考えると小・中・高の先生ではないのに、担任でもないのに、すごくおこがましいことをやったもんだなと思う。しかも、ルーズリーフの最後に「忙しいのに申し訳ないけど返事くれたらありがたい」的なことまで書いちゃって。

でも、授業を受けていてその先生はすごく丁寧で優しくて、授業以外の私的なことを相談しやすそうな雰囲気が出ていた。ありがたいことに私が出したルーズリーフの枚数と同じかプラス1枚くらいのお返事をいただいて、ほんとに涙が出そうになった。お返事の内容そのものはもちろん、こんな枚数をワードで打つ時間を割いてもらえたという事実に。

そんなわけで先生に対する印象が非常に強い。

話は前後するが、哲学について、難しくても少しずつチャレンジしようと思えたのは、ひとえにこの先生の授業のやり方のおかげだと思っている。

自分の中の哲学に対するイメージは、とにかく難しい・でも全部理解してからじゃないとその先の文や著作に進めないものであった。

でもこの授業は、「とりあえず読んでみる」「わかんないところは飛ばして」「読めるところまで」というやり方だった。それが私に合ってたのかもしれない。そしてもう一つ、先ほども話に出したレビューシートみたいなのも。

自分がその哲学書を読んで思ったことを書いて、それが(一部ではあるが)匿名で公開されるのだが、このとき学生同士の正反対の意見感想もしばしば紹介される。これによって、自分の感想や理解を否定されてない・自分のこのような感想は持ってて大丈夫なものなんだ、と間接的に感じていたんじゃないかといまでは思う。

これが、たとえば主流の学説に近い意見を持った学生の感想しか公開されないとなると、「あ自分違ったやっぱり哲学難しい」ってなってしまうだろう。

ここまで来てふと気づく。

ちょっとだけど日本古典文学かじって、いろんな解釈があって主流の解釈すら決まってない問題もたくさんあって、いろんな人がいろんな主張しているのを目の当たりにした。

哲学も、似てる?

自分の正直な感想や解釈を持っていていいのかも。

だから先生は反対の感想もそのまま公開したのかなあ。

こんなちょっとしたことなのに、それで一気にハードルが低くなって意欲が湧いてくるから不思議。

先生が仰っていた「時間をあけて同じ著作を読んでみる」を実践したい。こんどの私は、どんな感想を抱くのだろうか。

授業で取り上げた中で、いちばんとっつきやすかったのが『方法序説』だった。

特に最初に挙げた部分、考えすぎの短所をもつわたしにぴったりの本!!