所感と書感たち

読書に限らない感想文。じぶんの記憶がアテにならない!だってわたしは人間だもの。せっかく読んでも思ったことはどんどん消えてゆく。 むずかしいことは書きません書けません。小学生っぽくやります。本じゃないのも混ざります。最近何考えたか読んでくれる人はぜひ。なくてもいいけどあってもいいもの。Tumblrからお引越し

リーディングシネマ ロウドクノチカラ『終末のフール』

http://blog.goo.ne.jp/roudokunochikara

 川崎は人が多かった。改札付近に限ってみれば、新宿に引けをとらない。一体どうしてあれほど混んでいたのか。ラゾーナ川崎の中は、越谷レイクタウンのようだった。広い広い、巨大なショッピングモール。

 エレベーターで5階まで上がる。プラザソルに行くはずだったのに気づいたら映画館のロビーにいて、一瞬焦る。観聴きしにきたのは映像じゃなくて生だよ、生。

 思い直す。いやいや、イマドキの駅直結ショッピングモールだもの。どっかでつながってるでしょ。もしもつながっていなかったら、一旦下りて落ち着けばいいんだ。まだ時間はある、大丈夫。 

 というちょっとした心配は杞憂に終わった。「杞憂」は、この日のロウドクでも出てきたことばだった。取り越し苦労の多いわたしにとっては身近なことば。お前は杞の国の人間か!とツッコまれたこともある。いつだったか、誰からだったか。忘れたけれど確かに言われた。その通りかも、と納得したのは覚えてるから。


 大学の友人の演劇を結構観に行くから、小さい劇場に馴れていた。ので、プラザソルがとても大きく感じて、少し緊張した。自分が出るわけでもないけど。いろんなお客さんがいて、それぞれお目当ての役者さんや奏者さんがいたり、伊坂幸太郎さんの作品が好きだったり、劇が好きだったりするわけで、「どんなものが始まるんだろ」というみんなの期待が会場に充満してる。それはいつも感じるけれども、小屋が大きくなれば人数も増えるからより濃く強く感じる気がする。これらの期待が、終演後どんな感情に変わっているんだろう?という緊張感。そして自分は、どんな感情になっているのかな。


 あ、始まる。ソプラノサックスの音、ライトセーバーを楽しそうに扱う主宰さんの前説。終末のフール。3年後に小惑星が地球にぶつかってみんな終わりですよ、という恐ろしい事実を知りながら、残された時間を生きる人々のお話。



 籠城のビール。虎一の異常なまでに淡々とした態度と、だんだん噴き出してくる激しい感情の差。それがとてもよく表れていた。妹や母を間接的にマスコミに殺された兄2人の、怒りと恨みと憎悪と。過熱報道で自殺を誘発、いざ死んだら顔を背けて知らんぷりのような、刑務所に入れられない、捕まらない罪。遺族からすればたまったもんじゃない。冗談じゃない。

 もし犯人が捕まった場合でも遺族はそう思うのかもしれない。だって死んだ人は戻ってこない。なら自分が制裁をって考えるのも当然だ。でも時々、「きちんと罪を償って更生してほしい」という人がいる。あれは、どういう風に気持ちの整理をつけているんだろう。

 ロウドクを聴きながら、そんなことを考えていた。妹の暁子が人質にされた事件に関するマスコミの取材の様子を語る、辰二の声。

 なきゃないで困るのだ。ネットニュースもテレビもラジオも。でも昨今騒がれているように、それってねじ曲げられているかもしれない。それどころか、取材の対象を意図的に操作されてるのかも。マスコミが連日取り上げれば、「今話題の~」となる。もともとどこかで話題になってるから取材しに行くのか、取材したから話題になるのか、世間で話題にさせたいから取材に行くのか、なんなんだろう。

 あ、虎一と辰二が憎んでいる立ち回りの狡猾なアナウンサー杉田の娘がロウドクで白状している。たしか原作では杉田の妻が言い出すことだな。こういう小さな差異も見つけると楽しい。

 「最初から死ぬつもりだった」

 それを聞いて、虎一は杉田殺害を放棄したようだった。「死にたいこいつらの望みを叶えるなんて、ごめんだ」「逃げるなよ。毒で死ぬなんて、楽なこと考えるな」

 あ、そうか。罪を償って更生してほしいって、心の底から許したわけではないのかもしれない。刑期は終わっても一生背負い続けろ。こちらは大切な家族を失った悲しみに耐えてるのに、お前だけさっさと強制終了して輪廻転生モードなんてどうしたことだ!

 杉田は家族とともに虎一と辰二を逃がす算段を立てている。辰二は「杉田もどうかしてる人間だが杉田玄白なんて名前を付ける親もどうかしてる、世の中面白ければそれでいいのか」と憤慨していたけれど、辰二たちが逃げるのに手を貸してくれる(予定の)渡部さんは「こんなご時世で大事なのは常識や法律じゃなくて、いかに愉快に生きるかだ」という信条の持ち主で、ちょっと面白かった。辰二の言う「面白ければそれでいいのか」は、「(自分たちさえ)面白ければそれでいいのか」「(視聴率さえ取れれば・視聴者が面白がるなら)どんなことをしてもいいのか」という考えにつながるのだろう。渡部さんの言う「愉快」と、辰二の言う「面白さ」は質が異なる気がするけれど、どうにも字面というか、絵面が面白い。面白いのを忌々しく思う人が、愉快を愛する人に助けてもらうなんて。

 エンディングで當山奈央さんが「Hotel California」を唄う。観客への「ようこそ」の意に加えて、数年後にみんな死んじゃうというなんとなく常に重い雰囲気に、とてもよく合っていた。これは、観劇後になんとなく歌詞が気になって見てみたからこそ思えたこと。

You can check out anytime you like…but you can never leave.

 あなたは好きな時に(この世から)チェックアウトできます、しかしあなたは(地球から)立ち去ることは出来ません!

 ただ、小惑星の衝突を待つだけ。そりゃそうだ、みんながみんなロケットには乗れない。庶民にはそんな金もない。仮に乗れたとして、どこ行くんだ。宇宙旅行は地球という帰ってくる場所があってこそできるもんだ。帰る場所ないんじゃどうすんのさ、ねえ?



 冬眠のガール。あそうだ、これに出てきたんだ、「杞憂」。擬音語をよく使って独特の世界を繰り広げる美智。おんなじ。わたしも、擬音語擬態語大好き。だからだろうけど、美智のキャラクターがすごく好き。美智役の女性、とてもハマっていた。小松崎さんも、ハマっていた。原作でも好きだった話だから、今回ピックアップしてくれていて嬉しい。

 同級生の誓子が美智に感じてる一方的な優越感とか、美智自身もよくわかってない太田隆太に対する感情とか、実は太田隆太も……?とか、それだけ見れば青春小説っぽいけれど、あと3年で全部終わっちゃうとなると、とたんに暗い影が忍び寄る。赤とかピンクとかオレンジとか、どんなに明るい色を塗ってもそもそも画用紙が黒でした、みたいな感覚。

自分が日常の雑事に追われて、道に迷わないように、暗い道の先に小さな街灯を点すような気持ちで、やるべきことを書いておく。動揺したり、焦ったりすることがあっても、貼り紙を見れば、落ち着くことができる。「やらなければいけないことを一つずつやり遂げていく。一つやり終えたら、次のことが見えてくるから。慌てずに」とはお母さんがよく言ってくれた言葉でもある。

 この部分があるから、私は冬眠のガールが好き。

 本を読みたいと思う理由。私の場合は気に入ったことばをたくさん見つけたいというのが最たるもので、そのことばたちをたくさん集めて自分の気持ちを立て直す手助けとなってもらっている。この部分にも、力をもらっている。

 ロウドクノチカラ。自分の好きな箇所を役者さんのきれいな声で聴けるとは。なんて力強くなれるのかしら。

 小松崎さんは想像以上に良いキャラをしていた。めっちゃ面白かった。私も小松崎さんと喋ってみたいと思うほどだった。世界の終わりがテーマである作品の中で、ふっと笑える場面。「いい仕事してますねえ」と心中で鑑定団ぽく言ってみる。

 その小松崎さんでさえ、嘔吐する。『終末のフール』には、嘔吐やめまいなど、複数の人物の体調不良がちょっとずつ描かれている。小松崎さんは、「身体には蓄積してるんだろうな」と言っていた。ストレス、不安、絶望、もやもやしたもの、心のへどろ。

 街は今は落ち着いているけれどこれはただの小康状態であって、衝突が近づけばまた大混乱が起きる、これも作品の中で何回か言われていた。不安に蓋をして、どうにかこうにか落ち着いていそうに見せている。でも本当は消えてない、地面の下のマグマみたいにうごめいている。

 人って繊細で脆いな。心と身体がつながっていることは、私も日々感じている。



 天体のヨール。二ノ宮もまた、小松崎さんに負けず劣らず存在感がある。もそもそとは真逆の、むしろハキハキしてて口の周りの筋肉をよく動かしているような喋り方。ロウドクノチカラならではだと思う。ロウドクなんだからもそもそして聞き取れなかったら本末転倒だ。

 原作を読んでいる人は、二ノ宮を「もそもそとした喋り方をする人物」として認識している。でも、12月12日、あの場にいたお客さんは、ハキハキして抑揚のある口調の二ノ宮も見ることができたのだ。お得というかなんというか、楽しくなった。私の中の二ノ宮は、「意外と明るい天体オタク」に見事に塗り替えられた。憎めないキャラ。とにかくこのバージョンの二ノ宮、すごく好き。

 口調って印象を左右するんだな。

 帰宅後、家の留守電に入れた自分の声に奇妙さを感じるのは、「自分が思っている自分の声」との差だけが原因なのではなくて、「普段は気にも留めない自分の口調」も原因なのかも。私の口調は、周囲の人に私をどんなふうに印象づけているのだろう。誰かに訊いてみたいけど、ちょっと怖い気もする。

 二ノ宮への私の関心はまだとどまらない。大学のころから変わらない、天体への深い興味と感心。小惑星がぶつかってくるなら夜じゃないと観察できないんだと力説するあの熱意。世界があと3年で終わろうが何しようが、大好きなものをずっと大好きでいられるその格好良さたるや。なんて魅力的な人物なのだろう。そして、「矢部君ってさ、千鶴さんのこと好きでしょ」ってズバッと言っちゃうその思い切りの良さ。なんて魅力的な人物なのだろう。ズバッと言えちゃうのは、なんだかんだ矢部君のことをいつも気にかけて観察しているからこそだろう、いくら矢部君たちの本心が「星」を見るより明らかだとしても。なんて魅力的な人物なのだろう。「あいつ友達いなさそうだから俺が友達になってやる」というなかなかのひどさと上から目線を兼ね備えた矢部君を友だちとして受け入れる二ノ宮。なんて魅力的。でもたぶん、二ノ宮は友だちだのなんだのって意識してない。だって天体オタクだから。周りの人を大切にできるオタクって最強だ。なんて。

 月を眺めたら、矢部君は千鶴のいない世界からおさらばだと言っていた。はたして、矢部君は自殺できたんだろうか。二ノ宮に「自分が納得するための復讐」と言い当てられて、さらには「千鶴さんが許さないんじゃないの」とまで言われて、でも俺はおさらばだ、なんてやらないっていうかできなさそうっていうか。確か、ロウドクではカットされていたと思うのだけれど、二ノ宮の家から自宅に戻ってきた矢部君は、彼氏を見つけた美智と会話してる。「死なない」という目標を立ててる前向きな若者を目の当たりにしてるんだからさ、そこからちょっとは元気をもらったらどうかな、矢部君。だいたい、どうせ3年後に死ぬんだし、万が一死ななくても何十年か後には死ぬんだし、千鶴のいない世界が辛いからおさらばって、自分のせいで千鶴が死んだってとても後悔しているのなら、千鶴のいない辛さから「逃げちゃダメだ」と思うんですよ、青二才としては。

 どうするんだろう。矢部おじさん、生きますか?終末のフールの数々の短篇の中で、最後まで生きるのかどうなのか唯一気になるのが、あなたです。



 太陽のシール。

「選択できるというのは、むしろ、つらいことだと思う」

 うん、気持ちはわかる。そういうとき、私もある。情報過多とか、選択肢過多とか、うんざりしちゃうことある。一方で、迷う楽しさや選ぶ楽しさを、私は知ってる。だから、富士夫君よりは優柔不断ではないな、と妙に安心する。何でも真ん中に居たがる私の悪い癖。

 とはいえ私もなかなかの優柔不断人間で、富士夫君を見て、友人から以前もらったことばを反芻してた。

 なんかの授業で先生が言ってたんだけどね、人間って、ひとつの分岐点で選択を間違えても、その次の分岐とか、その次の次の分岐で、どうしたら最良になるかちゃんと考えて、その時点でベストな選択をする習性が備わってるんだって。

 「なんかの授業」っていうイマイチ出典のはっきりしない情報だったけれど、悩んでいた当時の私にはすごく効くことばだった。私にはやっぱりことばが大切で、私も自らが発することばをよく吟味しようと再認識したできごとだった。2年前。

 ようやく授かった新たな命を、この世に出すかどうか。優柔不断な富士夫君には、ヘビーすぎるといっても過言ではない選択だっただろう。同級生の土屋は、先天性で進行性の障碍をもつ我が子と最後まで一緒にいられることをーーあと3年で世界が終わるわけだからーーとても嬉しいと言っていた。

 富士夫君と美咲がどんな決断を下すのかもさることながら、私は、地球が終わらなくてもこういう問題って出てくるんだろうなと気になっていた。産婦人科で事前に何かわかったら。たとえば、新生児が障碍を持ってしまう虞が高いとわかったら。

 念のために言っておくと、障碍を抱えている人を憐れんだり見下したりしているわけではない。ただやはり大変さはある思うのだ。私は完全に光を失っているわけではないが、かなり視力が悪い。これでさえ不便を感じるんだから、その何倍も生活の中で苦労が有るんじゃないかな。

 子どもを授かったこともないから、またしてもただの想像でしかないけれど……事前に障碍が出るってわかったら、生まれてくる子に苦労させちゃうどうしようって考えが頭をよぎっても不思議じゃないよなあ。

 自分以外の命の行方を決めねばならぬ重圧と難しさよ。お父さんとお母さんが真剣に赤ちゃんのことを考えて出した結論なら、どうしたほうが最善かなんてそう簡単に言えないし、何が正解か、正解があるのかもわかんない。

 わかんない問題を考えても仕方ないという意見があるのは重々承知してるけど、それでも私はこの問題に関してはみんなでずーっと頭を悩ませておかなきゃいけないと思っている。科学の発達した今だからこそ。昔なら出来なかったことが随分出来るようになってきて、それがまだ生まれていない命に関することにまで延伸してきたからこそ。

 うーん、考え込んだ!いちばん真剣に考えたな。

 あ、富士夫君、浜松町から山手線か京浜東北線で東京まで行って、丸ノ内線で池袋って手もあるよ。



 とても効果的に用いられる打楽器の音。心臓がハッとびくつくような鋭いカホン。たぶん、あれはカホンだったと思う。ボサノバなどで使われてるイメージが強かったから、南国な音しか想像できてなかった。音楽に造詣の深い高校時代の友人がパーカッションにハマった理由が少しわかった気がする。あんな音も出るんだな。まるで銃声。表情豊かな音。

 何本もの弦楽器を弾きこなす奏者さん。どれも巧みに操っていて魔法使いのよう。でも、楽器に囲まれている姿は大好きなおもちゃを広げている子どもだ。楽しそうだなあ。

 私の大好きな「悲愴」を弾いてたキーボードの演奏者さん。弾いてる時の見た目も多少関係する気がするけれど、すごく「一音入魂」感が伝わってくる。鍵盤を押す前にほんの少しためている。ステージのいちばん後ろから、その音を出すのにいちばんよいタイミングを探している。

 自分がSaxをかじっていたから、やっぱり気になるのはSaxの菅原聡美さん。ソプラノもアルトもよかった。脇役で抑え気味にしてても存在感がたしかな音、堂々とした華やかな音と思う。Kの「only human」がよかった。とても品があって、会場がSaxの音で満たされていた。音があるのになんとなく静けさを感じる。目標とする生活を実現できる見通しが立ったら、私もSax再開したい!少しでもあんな風に吹けるように練習したい!って思う演奏だった。好きな音だった。憧れる。

 声弦(声弦とは東京事変のメンバー紹介で用いられたことば。まさにその通りだと思うので借用しよう)。声帯を使って、身体をまるごとスピーカーにして響かせる。どの曲も良かったけど、いちばんは「Stand by me」かな。にこにこしながら歌い始めるかわいらしい奈央さんと、「darling darling」のところですごくエネルギッシュになる奈央さんの対比が鮮やかだったから。

 歌は基本的には声と表情とその歌の歌詞しか基本的には使えない。ロウドクだってあまり動けないから声音と表情と口調しか使えないし、楽器は吹いてたら喋れない。芸術はなんでもそうだろうが、何かしらの制限があってその中で表現していくのは、やりがいもあるけどその分苦しいし難しい。

 そう考えると、人とふつうに会話するってすごく心強い道具が与えられてる感じがする。ガーターなしのボウリングレーン。自分の思ったことを自分で自由にことばを選んで伝えられる便利さ。自分の頭の中を外の世界に出すときに、なるべく適切なことばを遣えるようにしてたい。



 世界があと3年で終わるとしたら、私はどうするか。きっとパニックになる。でもまあ、なんとか落ち着けたとして、その次は?

 私の場合、「何かをしたい」というより「どうなってたい」という希望のほうが多い。

 まず、病気にはなりたくない。痛い思いをしながら死ぬのは嫌だ。それに、3年間を闘病に費やすのは切ない。3年間ふつうに暮らして、ポックリあっさり逝きたい。小惑星ぶっついて一瞬で終わってほしい。じわじわくるのはイヤ。

 それから、二ノ宮みたいに自分が好きだと思うことを継続してたい。ことば探し。自分を支えることばを探し続けたい。これは行動的には美智に似ている。

 そして美咲みたいに、人が「どんな意見を出しても嫌悪感を示さず」返事をするというのも、実はなりたい自分のひとつの側面だったりする。全員は無理でも、せめて自分が大切にしてる人に対してくらいは。

 ああ、そうだ。私は美智と大して変わらない歳だから、正直「恋愛に忙しい若者」にもできればなってみたいかも。ね。



 川崎は人が多かった。改札付近に限ってみれば、新宿に引けを取らない。


相変わらずすごい人ですね。来るときもすごかったですけど、まだこんなに。

まあ、土曜ですから。

お買い物ですかね。

皆さん景気いいですね。

ですよねえ。


 師走。年末のセール。