伊坂幸太郎・斉藤和義『絆のはなし』
巻頭写真を何気なくみる。まずそこでページを捲る手が止まる。
似てる。なんだか似てる。飄々とした佇まい、みるからに人のよさそうな顔、きちっきちっと固めないで、その日の気分を大切にしてそうな感じ。
仕事をしていく中でこんな人と出会えたら、とても楽しいのだろうな。
温和そうでトゲトゲしてないけど、でもさりげなくかつ鋭い視点で「これでいいの?」「それでいいの?」って、当たり前だと思ってるものに対して念を押してきそう。な感じを、お二人の写真から受け取った。
えーっ!うそー!うそおー!!!斉藤さんの「ベリーベリーストロング~アイネクライネ~」って、伊坂さんの小説とのコラボだったの?!うそーん。小説も読みたい。読むしかない。読まねばならぬ。これは読まねばならぬ。
ベリーベリーストロングの冒頭は、「駅前でアンケート調査 なんで俺ばっかこんな目に バインダーなんか首から提げ 誰からも目をそらされ」という歌詞で、ちょっと共感できるところがある。
「なんで私ばっかこんな目に」とは思っていないし、自分でアンケートに回答してくれる人を見つけなきゃいけないわけでもないけれど。でも駅前でやってるし、その後の歌詞みたいに、冬なんかは特に日暮れが早いからなんとなく心細くなる。そういうところは、わたしの日常とかぶる。
この本、手に取ってよかった。もうこれだけでそう思った。いきなり自分の好きな曲について頁が割かれているんだもの。
図書館の、あ行の作家ゾーンに行ったのは、ロウドクノチカラ『終末のフール』を観に行くので、あぁずーっと前に読んだけれど一応もう一回読んでから行くか、と借りるためだった。そうしたらこの本に出会えた。何かの縁かも。
「ベリーベリーストロング」ということばは、伊坂さんの小説の中で一度だけ遣われているそうだ。どこで遣われているんだろう。読む前からわくわくする。小気味よいテンポですらすらさくさくと唄う斉藤さん。
「彼女の親指あたりに マジックのメモ書きでシャンプー」
あるある、よくやる。しかもシャンプーってとこがいいよね。にんじんでもバスマジックリンでもなく、シャンプー。おしゃれ。
ざっくばらんな対談だから、2人の恋愛に関する話もある。
伊坂さんの、奥さまとの出会いは雨のバス停だったそうで、なんじゃそりゃあ、どこの小説じゃあ。きゅんきゅんするぞ。バス1本乗り逃してぽつんと立ってたらもうひとり女性がいて、そのうち雨が降ってきて二人して濡れてただと?なんじゃそのシーンは!……すごいなあ、そんなこと本当にあるんだな。
その場に居合わせて二人してずぶ濡れです、というのもそんなによくあることではないけど、その二人が結婚するというのはさらにそうそうないぞ。
びっくりしたのは斉藤さん。え、この人結婚してたの?全然そんな雰囲気がない。ちょっと、けっこう、いやかなり意外。意外だけど、信じられないって感じはしない。奥さまは文章を書く仕事の人らしい。二人してアーティストだ、才能の塊夫婦じゃん。
いいなー、わたしにも、なんかチャンスをくれませんか、神様。
なんて。
伊坂さんは10年後、小学生になった自分の子どもに「こう見えてもお父さん、昔は作家だったんだぞ」と言っている自分が想像できるという。
想像をはるかに超えるほど知名度があがってびっくりだとか、出来過ぎだとか、基本的に悲観的なので、この調子はそんなに続かないだろうと思っているらしい。悲観的というか、まあ本人が自分でそう分析してるからそれも間違いはないんだろうけども、身を削って?頭を振り絞って、作品を生み出しているからそう思うのだろう、と思う。たとえそれまでいくら過去作が売れていても、いくら有名になってても、書けなくなったら終わりなんだといつも思っているんだろうな。「伊坂幸太郎」という名前だけでは本は売れない、という考えをお持ちなのではないかな。出版界のことや社会の人々それぞれの心理はよくわからないけれど。すごく謙虚。伊坂さんの本だから買う、というファンもいまやたくさんいるだろうに。
毎回毎回そうやって全力で作品を生み出している姿を想像すると、紙の上のアスリートみたいに感じられてくる。
でもよく考えたら、どの仕事もアスリートみたいな面はある。サラリーマンだって、あまりにも事務処理とかできなかったらいくらなんでも働いてられない。ただアスリートは「あまりにも」ということばがほぼ無いに等しくて、より「こうできなくなったらおしまい」の基準が厳しい。他人から見たらまだまだやれそうでも、本人の中で満足いくレベルまで持ってこれなくなったから引退するという趣旨の話をする人はちょくちょくいる。
伊坂さんの言う「芯はあるけど見た目ソフト」「中はドーベルマンだけど外見はチワワ」みたいなのが一番強くて一番かっこいいという主張、すごくよくわかる。わたしもそう思う。見た目と中身に差異があって、かつ中身のほうがかっこよくありたい。わたしもそうありたい。
硬軟のバランスの取り方。ユーモアを織り交ぜる日常。真面目なことをいうときほど、ばかばかしいものでつつむ。たぶんわたしは今すぐそれをすることはできないけれど、つまり、まじめなものを大まじめに表現しちゃうけど、いずれそういう風にユーモアというオブラートで包むこともできるようになりたい。そして、ばかばかしいものの奥にひそんだまじめな思いを汲み取れるアンテナを発達させたい。と思う今日この頃。
自分のクセ球。
斉藤さんが言う、「ビートルズのこの曲を目指してそっくりな感じの曲を作ろうと思ってそこを目指すんだけど、最終的にこっちに着いちゃいましたって。だったら、そこの誤差がたぶん自分の個性なんだろうなぁ」ということとか、伊坂さんが『ゴールデン・スランバー』について「よくあるシンプルな筋書きに乗っかっちゃおうと。ただ、僕が書けばきっと変わるはずだって信じて、さっきの変化球じゃないですけどやってみたんですよ。そうしたら、やっぱり少しは違うものができたような気が」すると言ってることとか。
王道をゆくつもりでズレちゃったそのズレが自分らしさ、その自分らしさが他の多くの人に受け入れられて、歌手や作家という職業でそれぞれやっていけている。自分らしさが見ず知らずの他人にも受け入れられるってすごい才能。
二足のワラジ履こうなんて甘いんだよ。
世の中には、なんて広いことばをわざわざ遣わなくたっていいか、わたしの周りには二足のワラジ(特技や秀でた能力)を履ける人がたくさんいる。すごくうらやましく思う。ワラジをいくつも履けたほうが、人生謳歌できてんじゃないか、自分めっちゃ損してない?と思ったこともあった。でも今はもう、私はそのタイプじゃないと受け入れられるようになりつつある。もっと適当に言えば、諦めがつけられつつある。
諦めというとネガティブに聞こえるけど、必死に自分を肯定するためにも、必ずしも悪いことじゃないだろう?とか言ってみる。
ちゃんと諦められるというのは、自分を知ることの一部であって、自分に何ができるかを探す手がかりとなる。「したい」はいつも花形で。できることとしたいことが一致していたらそれは素晴らしいが。気持ちに正直になるのもすごく大切だけれども、たまには気持ち以外にも目を向けなければ、身体が壊れる。
自分ができるのはこれくらいの容器までで、自分が満たされるのはあれくらいの大きさで。前者は大きく後者は小さく、が理想だけれど、実際はまだまだ理想と逆だ。
あ、でも、ワラジ2つ履くタイプじゃないって自分で認められてからは、前者の容器を身の丈に合わせられつつあるのかも。あそこまでできる人でありたい私と、ここまでしかできない私。もちろんそれを怠惰の免罪符にするのはダメだけど(でもやっちゃうよね正直)。
あとは、満たされるラインを下げて、よりたくさん些細なことを幸せと感じられるようになるかだな。
で。
斉藤さんは、ワラジを2足履けるか履けないかではなく、「履くなんて甘えよ」というほうに考えが向くらしい。すげー、かっけー。音楽というワラジでご飯食べてるからこそ言えることばだと思う。
よく考えたら会社員の人だってそうだよね、ワラジ2足ってつまり会社で働いてるのと同じくらいの配分でもう一つ別のことするってことでしょ?そんなんできる人そうそういないよね。小椋佳とか?
わたしが考えたワラジと、斉藤さんが指していたワラジは、すこし違ったみたい。
斉藤さんを作った本に、よしもとばななの『ムーンライト・シャドウ』があってうれしかったな。自分が好きな本が、自分の好きな歌手にとっても大事な本として挙げられてて。
病気の影響もあって、本を読むのが怖くなっていた。読んでも読んでも2~3行前に書かれてることを忘れてしまうから。
でも今、少しずつ読めるようになった気がして開いてみた。リハビリの第一歩として選んだのがこの本でほんとうによかった。対談集という軽めのものだけれど、考えるとっかかりがたくさんある本だったと思う。