所感と書感たち

読書に限らない感想文。じぶんの記憶がアテにならない!だってわたしは人間だもの。せっかく読んでも思ったことはどんどん消えてゆく。 むずかしいことは書きません書けません。小学生っぽくやります。本じゃないのも混ざります。最近何考えたか読んでくれる人はぜひ。なくてもいいけどあってもいいもの。Tumblrからお引越し

H-TOA「ワンさんの一生とその一部」


自由が丘。なにがどう自由なのかはよくわからないけれど、なんだかよさそうにも聞こえるし単にほったらかしにされてる気もする地名。LIBERTY。


今日も私は、不思議な空間に行ける。

H-TOAって、なんなんだろう。

人‐とは?

それだと、wもしくはhが足りないか。

ほん‐とうは?

メンバー本人に訊いてみたいけれど、今のところ訊ける機会はない。でも、今でもフライヤーを目にするたびに何なんだろうなあと思う程度には気になっている。



ピカチュウみたいなやつとドラえもんみたいなやつどちらが良いですか」と訊かれたので、ピカチュウみたいなやつでお願いします、と答えて塗り絵のようなものをもらう。一緒に今日の公演内容の英語翻訳ももらった。

私はもう即決でピカチュウだった。別にポケモンマスターを目指していたわけではないけど、毎週木曜日にテレビの前に座って始まるのを待っていた。正直なところドラえもんは小学校の遠足で乗るバスの中で流れていたのを見るくらいだったので、あまり親しみがなくて……。

英語は(正確には「も」)苦手なので、すぐには読めない。気が向いたら、辞書を引き引きがんばるかもしれない。

英語が書いてあることくらいはわかる。もしこれが、いつだったか国立国会図書館で蔵書購入に関して問題にされた「亜書」みたいに意味のわかんない紙だったらどうなるだろう?それはそれで面白いかも、とかほんとどうでもいいことを考えていた。私、やっぱりほんとどうでもいいことを考えるのが好きみたい。


写真撮影も飲食もOKな空間。ああ、これは確かに自由かもしれない。FREEDOM。お酒を注文するとコンビニで買ってきてくれるらしい。ので、氷結のりんごのストロング缶を頼む。200円。



趣味の話。せずにはいられないことを、舞台の2人が交互に話している。男の人は靴磨きで、女の人は穴か隙間をほじることだったかな、そんなようなことを話していた気がする。そうかと思えば軟体動物みたいにぐにゃぐにゃ動いたりもしていた。

いいね、このよくわからないものを初っ端にぶっこんでくる感じ。私好きだな。よくわからないものを冒頭に見せられたほうが、観に来た聴きに来た考えに来た感じに来たって気がする。

2人の「せずにはいられないこと」を聞いて、わたしの場合はなんだろうなあと考える。

指の関節を鳴らすこと、別に何も弾かないのに、ドファレファと指を動かすこと。これらは単なる癖か?

趣味という意味なら、何でも書きたがる。絵じゃなくて文字。紙を集めたがる。便箋とか和紙とかきれいなパンフレットとか。

なくて七癖なんて言うけれど、七つどころじゃないと思う。七つしか癖がない人なんているのかな。口の癖、足の癖、手の癖、立ち方の癖、歩き方の癖、とか。


あらすじ英語だからあとでゆっくり読もうと思っていたら、プロジェクターでQRコードが映し出されて、これを読み取ると日本語版のあらすじが出てくるらしい。視聴者ちょい参加型?イマドキだなって思った。

あ、「本日はご来場いただきありがとうございます」から載ってるんだ。もう始まってたんだ。あらすじだけれど、冒頭だけシンポジウムの司会役の原稿みたいだった。

image

http://h-t-o-a.com/



ワンさんの一生とその一部。

こちらが本日ワンさんの代わりをしていただける方です、だって。じゃあ、目の前にいる人はワンさんじゃないんだ。

自己紹介を始める代理ワンさん。検索のことを想像って言う癖があるみたい。もしかしたら表示される結果のことも想像って言ってるかもしれない。

代理ワンさんの言うことは「Googleです」とか「cookpadです」とか、ことごとく訂正を入れられる。絶妙なタイミングで滑稽だった。それほど重大なことを訂正しているわけじゃないから余計にじわじわ来る。

それにしても、訂正が些細とは言え代理ワンさんの発言は事実ではないらしい。代理の意味がないじゃないか。それとも、もともとのワンさんも事実ではないことをいう癖があるのかなあ。


「うちのお店で出している麻婆豆腐とか担々麺とか酢豚は、全部想像して作ってました」

これだけ見ると、検索を想像と言う癖を知らないまま見ると、なかなか格好良くみえる、かも(超が付くほど有名な料理ではあるけど)。ただの麻婆豆腐や担々麺や酢豚じゃないよ、みたいな風に受け取れなくもない。


想像と検索。

想像が豊かな人はすごい、生み出せる人はすごい。かっこいい。新しいものを生み出すのはたしかに大変。

でも、溢れる情報の中から適切なものを探し出せるスキルだって結構大切ではなかろうか。過不足なく、求められているだけの情報にたどり着ける、絞り込める。これまでに長い時間かけて生み出された膨大なものの中から探し出すことも骨が折れるもんだ。

それから、自分では新しいと思っていても、じつは別の誰かがうんと前に作ってたってケースもあるかもしれない。自分の作ったものが新しいものであると確認するための検索もある。情報を探してるのに、その情報が見つからなくて「ああよかった自分のオリジナルだ」って安心することになるから、なんだか不思議な話ではあるが。何ていうの、検索を裏側から使う感じ?



スクリーンでは、GoogleやYahooの検索結果画面から変わってyoutubeで「兵隊床屋」という曲が流れる。戦時歌謡曲らしい。それを聴き始めたとき、私は李香蘭の「蘇州夜曲」や「夜来香」を少しだけ想起した。たぶん、レコードのジーッという音や、日中戦争のときの歌謡曲と聞いたことがきっかけとなったんだろうな。

「蘇州夜曲」や「夜来香」はやたらと美しくきれいな歌詞・曲調で、本当にこれ戦時中かと思うようなものだった。「兵隊床屋」も、クラリネットやフルートやコントラバスが入っていて前奏は良いなと感じるものだった。

でも!歌詞が入った瞬間、壊れちゃった。前奏との悪い意味でのギャップがすごい。ちゃっちいというか安っぽいというか。品が下がっちゃった、みたいな。なんでだろう。李の花の咲く下なんてすてきな情景を歌う部分もあるのにね。

トランペットもビブラートまでしてちゃんと高らかに吹いてるのに、すごく虚しい気持ちになってしまった。

youtubeで表示される「兵隊床屋」の歌詞も不気味だった。「ジョキジョキチョッキン ゾーリゾリ」なんて特に、少しぞわっと来るぐらいだ。

やっぱりカタカナって苦手。擬音語も擬態語もできることならひらがながいい。

まあ、ジョキジョキ~なんて歌詞はどちらにせよ恐ろしさが出ちゃうものだと思うけど。



代理ワンさんが横の男性に訂正ばかりされているので、ワンさんの口から語られたハオランさんやアイリさんの存在も嘘、というかワンさんの頭の中にしかいなかった人なのでは?とすら思い始めた。けれど、ハオランさんはワンさんのトマトチャーハンづくりのきっかけとなった人らしい。

えー、ほんとかなあ?

ワンさんは、ハオランさんが銃撃されたときに「どうでもよくなってしまって」なんて言っていた。ほんとかなあ?ほんとにー?どうでもよくするしかなかったんじゃないの?トマトチャーハンの作り方でも考えて逃避しないとやってられなかったんじゃないの?おかしくなりそうだったんじゃないの?と考えたりもした。


トマトの色。ごろごろしたものじゃなくて、おそらくトマトピューレ。と、銃撃されたハオランさん。

私は血というものがとてもとても苦手で、採血も寝てやらなきゃいけないし、車の免許を取る際に見せられた救急救命講習ビデオでも目の前がモノクロになって頭ふらふらするし、挙句の果てには2時間ドラマのわかりやすい血のりでもふくらはぎやおなかがむずむずしてくるほどなのだが、どうしてかこの時は平気だった。氷結のおかげかもしれない。



クックパッドでもない、母からの教えでもない、ワンさんの初めての料理。検索じゃなくて、ワンさんが考えついたレシピ。ワンさんも、やはり検索じゃなくて「想像」をしたかったのだろうか。

初め、ワンさんは

あなたは何を想像しますか。では今日は――を想像してみましょう。Yahooによると検索したのはこれらです。Googleでも検索してみましょう。ここには想像してないものはないはずなんです。

と言っていた。

でも今ワンさんは

あの時私にとってはハオランさんの死がこのトマトチャーハンを作るための起爆剤のように思えて、クックパッドでもない、母からの教えでもない、私の初めての料理ができました。頭の中で綺麗に、次々と手順があふれていって、トマトチャーハンができていました。Yahooでトマトチャーハンを検索してみましょう。そのトマトチャーハンはここにはありません、絶対ありません。私のトマトチャーハンはちゃんと存在してます。作れます。すごく美味しいです。ここにはなくても、私のトマトチャーハンはあります。

と。


はて、どうなんだろう。代理ワンさんのことばは、もう検索も想像もまぜこぜになっていて、検索なんだか想像なんだか想像という名の検索なのか。

ワンさんのトマトチャーハンはあるのかないのか。GoogleやYahooに表示されるのかされないのか。何があって、何がないのか。何が本当で、何が本当ではないのか。あるとかないとかって、何なのか。

ぐらぐらする。地震のように、深いところから揺れる。




2部は、ワンさんの一生のうちの一部についてだった。「はっ」とか、「ほっ」とか言っている。この前見たときはすごい勢いで息を吸っていたりしてて、ちょっと似てると思った。吸う息も吐く息も台詞のひとつとなる。

「はっ」とか「ほっ」を翻訳するということ。

↑翻訳のようすと、トマトチャーハン


もとの言葉がわからない者たちに相対したとき、翻訳者はその気になれば全く違う内容をさも合っているかのように話すこともできる。もしそんなことがなされていたら、あの舞台で起きていたことは作品の中でも事実ではないことになる。

その時私は、あらすじに書かれていた、「舞台上で起こっていることが事実ではない」という文を思い出していた。でもそれの意図することがこうであるのかはわからない。お手上げです。



訪れた時に渡されたピカチュウのようなものは、最後の最後に出番があった。塗り終わった人から上演終了らしい。なるほど私もここに参加していることになるのかな。

目の前から離れていく思考。

目の前から離れていく思考。

私のピカチュウもどきは、橙色と緑色と青色に染まっている。ことば以外で意味の込められたものが好きなので、色の意味とか石の意味とか、花の意味とか、そういうものに目がない。元気出したいし癒されたいし落ち着きたいからそうやって塗った。我ながら引くほどのビタミンカラー。ピカチュウもどきを塗っている間、会場では音声が流れている。代理ワンさんも残ったまま。


流れる音声はまるで何かの怖い話のようだった。観ている日にだんだん近づいてくる日付。「もしもし?今あなたの家の前にいるの」「もしもし?今あなたの後ろにいるの」みたいな怪談、なんだっけな。


音声に従って素直に自分のスマートフォンで代理ワンさんを撮ってみた。するともう一つの声が、記録しないでくださいと言ってきた。

どちらがいいのかはわかんない。わたしも、ここでいくら芝居を記録しても、すべては残せない伝えられない。

私この芝居の中でここが一番好きなのに、満足に残せない歯がゆさと無力感を感じる。みんなにこの感じ一回体験してみてほしい。撮るか撮らないか、迷うことを楽しむ時間。迷っていてもいい時間。ショッピングのような。でもそれと違うところは、いつまでもいつまでも、早く決めなきゃって思わなくていいことだと思う。



ワンさんは最後まで代理のままだったし、ハオランさんもアイリさんも話の中で出てきただけだったし、なにひとつ確固たることというか、「この点は事実です」って言えるものがないんだなと思った。でも、それでもお芝居ってできるんだなって思った。それはお芝居の特権かもしれない。

日常生活で事実かわからないままことを、ままごとを進めていくなんて、いつか無理がくるもんね。


60分の芝居が終わり、塗り絵も終わり、友達と久しぶりに話して帰路につく。塗り絵と英語翻訳をくれた人が、シンポジウムはともに酒を飲むという意味だと言っていたので、気になって東横線の中で検索している私がいた。そのとき私は、シンポジウムについて自分なりに想像しないですぐに検索しちゃったな、そういえば。

ああ、お酒が飲みたい。

http://www.h-t-o-a.com/Wang-s_script_ja.html