20180114 大山阿夫利神社と大山寺
13日の21時くらいに思い立って、14日の9時半ごろ家を出た。
大山阿夫利神社は下社と本社があって、そう聞いたらもちろん本社まで行きたくなるのだけれども、調べてみるとどうやらちょっとした登山のレベルらしいので、今回は見送った。
ほぼなんの準備もしないで行くには危ないかもしれないと思って。しかも冬だし。
雨降山ともいわれていると聞いたので、急に天気が変わったらやだなと思いながらケーブルカーに乗って下社へ向かう。
遠くは霞んでいたけれど、空は青いのでそこはよかったな。
なんだろうなぁー。以前戸隠神社に行ったときの感覚とよく似ている。行きたかったはずだし、来れてよかったとも思うのだけれど、お詣りしてすごく気分が晴れたり元気になったりするかと言えば、少なくともその場ですぐにそうはならない。
ただ、せっかく来たのにとか、今日はやめときゃよかったとか、そういう風に思ってはいない。
石段をちょっとずつのぼりのぼり、いろんなことが頭に浮かんでは消え、景色きれいだなと横目で見たりもして、まだ階段あるの?とやや怠惰なこと考えたりしているうちに、自分でも気がつかないうちに溜まって凝り固まっていたものがほぐれた感じ。
阿夫利神社に行くことで頭や気持ちがかき混ぜられる。見た目にはわかりづらいけど底に沈澱しているだけで実は泥はあるって状態から、水は濁ったけど あっなんか引っかかってたんだな と気づけた。
自分で自分に泥があると気づけないよりは、まだよい。
それは、日頃の疲れとか、来週もやることいっぱいあるんだよなぁ、くらいのちょっと気がかりなこととか、もうすぐ年度が変わって、自分が望もうが望まなかろうが否応なく違う空気感になるかもしれないことへの不安とか、とにかくいろいろ混ざってる。
不安とかストレスとかあってほしくないと考えるのがだいたいの人だけど、でもだいたいの人はそれはゼロにはならなくて、なんとか付き合いながら毎日を過ごしていく。
そしてたまに、心の掃除をしに神社やお寺に足を運ぶ。わたしもその一人。
行ってすぐにその場ですっきりしなくても、日常に戻って知らないあいだに神さまやら仏さまやらが少しだけわたしたちを手伝ってくれてたらうれしいなぁ。きっとそうだ、それも信心のひとつ(ってことにしてしまおう)。
大山寺ではどなたかが祈祷を受けている真っ最中で、勢いのよい炎が周りをオレンジにして、お坊さんの唱えるお経がよく響いていた。スピーカーがあるから外まで聞こえる。
御朱印をもらった後で、勝手にお堂の椅子に座ってしばらく聞いてた。お経の中身はもちろんわかんないけど、不思議と居心地のよい空間だった。
それから、かわらけ投げというのもやってみた。素焼きのお皿を二枚落とすことで厄も落ちるらしい。やってみたものの、割れた感触がなくてすこしだけ残念だった。もっとすっきり、ぱりーん!といくもんだと思ってた… 今度行ったら再挑戦する。
大山寺の裏の小さい池には氷柱が出来ててびっくりした。 氷柱って、そんなにさらっと見られるものなのね… もっと北のほう行かないと見られないと思ってた。
今日いちばんびっくりしたのはそれかもしれない。