所感と書感たち

読書に限らない感想文。じぶんの記憶がアテにならない!だってわたしは人間だもの。せっかく読んでも思ったことはどんどん消えてゆく。 むずかしいことは書きません書けません。小学生っぽくやります。本じゃないのも混ざります。最近何考えたか読んでくれる人はぜひ。なくてもいいけどあってもいいもの。Tumblrからお引越し

尾形真理子「こちらはカモメ」

わたしも宇宙を飛びたい。コールサインも、チャイカがいい。

Я чайка. 私はカモメ。

なんだか重力を感じることに疲れちゃった。体が重い。

地上では大した風でなくても、上のほうでは意外と吹いていたりする。

実はすごいエネルギー。そして、軽いのね雲って。

そういう、ハイスピードな動きの雲を見ていると、まるで朝のターミナル駅みたい。なに、その速さ。そんなに速く動いたからって、到着時間は大して変わんないよ。でも、

ラッシュに飲み込まれながらも、飲み込まれている以上、わたしもそれを作り出す一員、一因。

急に失くなるやる気。ほんのちょっと前までがんばって急いでいたのに、がんばってがんばっていたのに、ある瞬間、それまでのことをすべて台無しにして、もういいやって。

何が引き金になったのかはたいてい、わからない。

「引き金になった何か」も「もういいやという結果」も、まとめてどうでもよいわ!

「わたし」はすごいな。「明日は仕事する」ってすぐその場で心に決められるのだから。わたしは、そんなにスパッと思えない。

せいぜい、明日は仕事「しなければならない」とか、明日も仕事「しないなんて無理」とか。

明日は仕事する。

なんと歯切れのよい、潔い思いだろう。

わたしも宇宙を飛びたい。ただの空じゃ足りない。

空の青は闇に変わるのか、そうなのか。

知らなかった。じゃあ、注文はそれでお願いします。

そこまで行きたい。

「わたしは何をしたいのか」は、みんな多かれ少なかれ思うことで、自作自演の宇宙旅行を始めちゃったときに限ったことではない。

何を見たい、何を着たい、何を食べたい。

気持ちがふだんの状態の範疇を飛び出していると、見たい・着たい・食べたいレベルでさえ、案外迷うものだ。

だけどいまは、考えるのをやめようと思った。その答えは、きっとすぐにはみつからない。そんなに都合良くはいかない。

確かなのは「そんなに都合良くはいかない」ことだけというのもだいぶもどかしいけど。

考えるのをやめて、ただ、そうなのわたし今こんな気分なの、と。

時間をかけてでもいいから、それを自分の中にあってもよい気持ちだと認められるように。  なりたい…。

そうだ、「こんな気持ちから早く脱したい」なんて思うから、余計苦しいのだ。悲しいも淋しいもしんどいも、ストレスなく消せないことなんてザラにある。

いつかは抜ける日が来る。

わたしはカモメ。余が信玄じゃ。

はじめたくなったらはじめよう。いつか?そのうち?

はじめたくなるかもしれないし。

女性初の宇宙飛行士、軍人ではない。

そうやって三拍子そろったからついつい、 Я чайка.を、きらきらした台詞に受け取ってしまいがち。

わたしはカモメです。はい、カモメです。

当の本人は、まるで電話に出るようにことばを発しただけ、

いつもどおりに淡々と。

「わたし」がとらえたテレシコワの姿勢は、わたしにいまいちばん必要なことかもしれない。

淋しい悲しいの鮮度・感度をすこし落として、淡々と。

あ、しれっと誤植見つけちゃったー

わたしの上にある空は、何度でも晴れる

「わたしの上にある空は、何度でも晴れる。」

真ん中にいる女の子と一緒に出すには、なんだか、文字が太いというかごついなぁ、
と思ったけれど、そうやって引っかかったってことは、
すでにこのポスターに気を取られている証なのかなー。

人の目を引くのに上手いこと作用する不自然さも、あるもんだなあ。

20180114 大山阿夫利神社と大山寺

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13日の21時くらいに思い立って、14日の9時半ごろ家を出た。
大山阿夫利神社は下社と本社があって、そう聞いたらもちろん本社まで行きたくなるのだけれども、調べてみるとどうやらちょっとした登山のレベルらしいので、今回は見送った。
ほぼなんの準備もしないで行くには危ないかもしれないと思って。しかも冬だし。

雨降山ともいわれていると聞いたので、急に天気が変わったらやだなと思いながらケーブルカーに乗って下社へ向かう。

遠くは霞んでいたけれど、空は青いのでそこはよかったな。



なんだろうなぁー。以前戸隠神社に行ったときの感覚とよく似ている。行きたかったはずだし、来れてよかったとも思うのだけれど、お詣りしてすごく気分が晴れたり元気になったりするかと言えば、少なくともその場ですぐにそうはならない。
ただ、せっかく来たのにとか、今日はやめときゃよかったとか、そういう風に思ってはいない。


石段をちょっとずつのぼりのぼり、いろんなことが頭に浮かんでは消え、景色きれいだなと横目で見たりもして、まだ階段あるの?とやや怠惰なこと考えたりしているうちに、自分でも気がつかないうちに溜まって凝り固まっていたものがほぐれた感じ。
阿夫利神社に行くことで頭や気持ちがかき混ぜられる。見た目にはわかりづらいけど底に沈澱しているだけで実は泥はあるって状態から、水は濁ったけど あっなんか引っかかってたんだな と気づけた。
自分で自分に泥があると気づけないよりは、まだよい。

それは、日頃の疲れとか、来週もやることいっぱいあるんだよなぁ、くらいのちょっと気がかりなこととか、もうすぐ年度が変わって、自分が望もうが望まなかろうが否応なく違う空気感になるかもしれないことへの不安とか、とにかくいろいろ混ざってる。


不安とかストレスとかあってほしくないと考えるのがだいたいの人だけど、でもだいたいの人はそれはゼロにはならなくて、なんとか付き合いながら毎日を過ごしていく。
そしてたまに、心の掃除をしに神社やお寺に足を運ぶ。わたしもその一人。

行ってすぐにその場ですっきりしなくても、日常に戻って知らないあいだに神さまやら仏さまやらが少しだけわたしたちを手伝ってくれてたらうれしいなぁ。きっとそうだ、それも信心のひとつ(ってことにしてしまおう)。


大山寺ではどなたかが祈祷を受けている真っ最中で、勢いのよい炎が周りをオレンジにして、お坊さんの唱えるお経がよく響いていた。スピーカーがあるから外まで聞こえる。
御朱印をもらった後で、勝手にお堂の椅子に座ってしばらく聞いてた。お経の中身はもちろんわかんないけど、不思議と居心地のよい空間だった。

それから、かわらけ投げというのもやってみた。素焼きのお皿を二枚落とすことで厄も落ちるらしい。やってみたものの、割れた感触がなくてすこしだけ残念だった。もっとすっきり、ぱりーん!といくもんだと思ってた… 今度行ったら再挑戦する。

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大山寺の裏の小さい池には氷柱が出来ててびっくりした。 氷柱って、そんなにさらっと見られるものなのね… もっと北のほう行かないと見られないと思ってた。


今日いちばんびっくりしたのはそれかもしれない。

2017.11.23 15周年ライブ 冬のハイヌミカゼ2017

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神通力持ってそうな雰囲気の写真/城南海さんも好き/黒糖焼酎「せえごれ」Amazonで頼んでしまおうか

わたしの席は4人席の奥から3番目。3人しかいなくてひとつ空いてるところ。ど真ん中。相席。

あと10分

備忘録

2017.11.23 15周年ライブ 冬のハイヌミカゼ2017

勝手に凛と歌うんだと思ってたら、めっちゃ動くし力強かった。生命力そのもの。

「波よ もし 聞こえるなら 少し 今 声を潜めて」

海の神様にお願いするのを通り越して、自分で直接波の声を静かにできそうな迫力だった。「もし聞こえるなら」って、絶対聞こえるよそれならって思った。行ってよかったーーー

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元ちとせ「冬のハイヌミカゼ」から『腰まで泥まみれ』

2015年にこの歌がカバーされて、臥してたときにYouTubeで見てから、いつか生で聴いてみたいなと思っていた。ので、今回のライブでそれが叶ってよかった。

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ピート・シーガーさんが作った歌で、戦争へと進んでしまう政策への批判・反戦歌だと広く捉えられている。

軍曹の助言を無視して渡河訓練を強行しようとした隊長が、おぼれて死んでしまうようすが描かれている。歌詞はほとんど、行動の描写や隊長が命令する言葉で占められているので、字だけ見るとちょっと淡々とした印象を受ける人もいるかもしれない。

でもちとせさんの歌声で聴くと、すごく不気味で不穏な感じ・嫌な緊張感が表れてくる。気持ちがざわつく。けど聴いちゃう。楽器がかっこいいのもある。

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命が削れてもいいやぐらいの気魄。伝えたいんだろう。

奄美のグインは、人によっては受け付けないことも多いだろうけど、私は隣の沖縄と関わりがあることも影響してか、好き。正直なところ、伝えたい気持ちが強すぎて、力んでしまってるのかなと思うこともあるけど。

それでもやっぱり好きだし。それに15周年ライブではそんなこともなくって、のびのび歌われてたように感じる。なのにすごい気魄だった。耳・頭・心が直接揺さぶられるような、声に飲み込まれるような。

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上の命令には逆らえない軍隊の雰囲気、軍社会。

進言に耳を貸さない隊長。

隊長は、隊員の誰もがここを渡ろうとすれば溺れ死ぬと思っているのに、進めと言い続ける。

昔渡れたんだから大丈夫だ、渡るんだ、なに怖気づいてるんだ。いやいや、昔は大丈夫だったとしても、それは昔の話であって。目の前の川の現在のようすを最優先で考えなければ。



「これを聞いて何を思うかは あなたの自由」

旧日本軍の話とかいろんな軍隊の話とか、それは想起するし、戦争へ向かう国に警鐘を鳴らす歌であることは間違いない。けれどこれは現代の我々の日常、身近なところにも重なる部分がある。

「いいからやるの、進めるの、突き進むの」「頑張りがぜんぜん足りない」「まだ甘い」

泥船とわかってて乗りたいやつがどこにいるもんですか。

でも、わかってても乗らざるを得ない・従わざるを得ない空気が主流だし、それは私だってそう。だって命令なら守らなきゃ。命令の意味無いし。

そんな空気が主流の社会はよくないけど、今のわたしはそれを主に思ったのではなくて、判断や指揮をする者は非常に大きな責任があるということ。下は、従うか(刃向かったうえで)やめるかしかない人がほとんどなのだから。

もちろん、反対を押し切って強く引っ張っていかなきゃいけないことはある。が、変な方向に引っ張ってしまったら悲惨な結果が待ってる、からこそ、命令は難しい。頑なに変えないのもだめ、変えすぎるのも翻弄されるからだめ。人の話を聞かないのもだめ、左右され過ぎるのもだめ。

そう考えると、上に立つってすごく困難なことだ。初めからそんなことできる人なんていない。小さな指揮や命令で成功したり失敗したりしながら、少しずつなっていくものだと思う。平社員がいきなり社長になることは極めて少ない。次長課長部長という段階はその積み重ねのためにあるものでもあろう。

でも、上に立ったなら、「下が乗りたくないと思いながらもいやいや乗る船」を造るのは一つでも減らすことを考えてほしい。と思う。それが出来たら苦労しないのは重々承知だが、その苦労の代として給料も他より高いのだろうから。


翻って自分のことを考えてみる。

自分にとって重要なことは、泥まみれで抜け出せなくなって溺れ死なないように、自分で判断しなきゃ。

その際はやっぱり、  自分が思った「進め」を頑なに変えないのもだめ、変えすぎるのも翻弄されるからだめ。軍曹の話を聞かないのもだめ、左右され過ぎるのもだめ。下の者に大事なことって、指揮する人と一緒なんだな。

「進め」と言われたからって、ほいほい進んでいったら死んでしまわないか?

全部に対してそんなこと考えてたら、正直疲れるし時間かかるし生活できなくなる。けど、重要なことぐらいは。



隊長だけ死んでいった。

他のたくさんの隊員が巻き添え食らわなくてよかった。

H-TOA「MIGHT HAVE HAPPENED~ありえたかもしれない発表~」の前

昨年の10月中旬、宇宙をちょっくら旅してきた。行先はニタス。

宇宙旅行が実現するとかしないとか言ってるけど、宇宙そのものは国道みたいなものだと思う。目的地ではなくて、そこを通っていくような。

宇宙飛行士だって、漠然と宇宙に行くというよりは、ひとまず国際宇宙ステーションを目指すものなんじゃないかな。




今回わたしはニタスへの旅行の予行演習に参加したというか、ニタス側からすると客に見られる練習としてその客役をやったというか、稽古を見学させてもらった。

その稽古は見ていて非常に面白くて、観劇って楽しいのは本番だけではないんだ、と強く感じた3時間だった。


普段みんなから呼ばれている名前では呼ばれない、役の中身をつくる?探す?作業。

動きをどうするとか、台詞の速さ、息継ぎについて。どんな感情で喋るかとか。わたしはそれをやれと言われてもできないけど、聞いているとやっぱり変化は何となくわかる気がする。


長い台詞はいったいどこまでがひとまとまりで、どこで区切ったら観客の頭に入りやすいか。スラーがどこで途切れているかよく見なさい!と言われたことを思い出した。似てる。


本番では姿見を持って動くところを、この日はまだ実物がないのでエア姿見を持っているということもあってか、ちょっとパントマイムみたいだった。


流れる独特な空気。ピリピリした感じではないけど、まったりともしていない。よくその空気が保てるなと、すごいと思った。しばられるとかしばるじゃないけど、律している。人間って真剣になると自律できるのかもしれないなぁ。


稽古や練習と本番って、「けん けん ぱ」みたいだと思う。

けんけんぱは、両足をつく「ぱ」の部分が2回も3回も続くと跳ねるのがしんどくなる。「けんけん」があるから、ぱ がやりやすい。本番のためのけんけん。逆に けんけん だけだと、いつまでも ぱ という目標や区切りがないからそれもそれでしんどい。主にやる気の維持という面で。

ぱ と形は違うけど、やっぱり大事なもの。


話の筋を知っているからこそ、ああでもないこうでもないと言っていたあの箇所はこういう風にしたんだ!とか、登場人物に親しみを感じたり妙に可愛く思えてきたりとか。

http://www.h-t-o-a.com/top.html

稽古を見せてもらったから、

本番を見るときもいつもと違う楽しさがあったんだと思う。

愛は、声で。

ありがとうも、ごめんなさいも、

「声で」がだいじだと思う。




ことばと文字・口調・声色・表情などのこと

ルミネのポスターを見たり、本屋で「『そうだ、京都行こう。』の20年」(https://honto.jp/netstore/pd-book_26369640.html)を買ったりして、コピーライターってすごい、ことばってすごいとまた感じた。

ちょっと逸れてる気もするけど、ペンは剣よりも強し、って故事もあるし

言霊ってことばもあるし

むかしからすごく力のあるものだと思われてたんだろうな。

急いでるけどどうしても伝えたくて書きなぐったメモとか、ていねいに書こうとしてゆっくり筆を運んでたらちょっと筆圧まで強くなっちゃった文字とか、自分の思ってることをなんとか伝えようと迷いながら紡いだことばとか

相手のことを考えるあまり口調がたどたどしくなっちゃったり、ことばだけ見れば特別なことはないのに、表情や声ですごく強く言われてるように感じたり、

いろいろあるよね。

前々からずっと思って定期的に同じこと言ってるけど、自分なりに受け取る相手のことを考えて発したい。書くにしても話すにしても。

一回自分から出ちゃったらもう取り消せないから、剣より物騒なものであぁ傷つけちゃったかな嫌な思いさせちゃったかな、ってそわそわ後悔するの減らしたい。




声で。ってポスター撮っといてこんなこと言うのも変だけど、

わたし話すより書いて伝えるほうがいいんだよね。

だって話しながら考えるとつっかえちゃうんだもーん!笑