元ちとせ「冬のハイヌミカゼ」から『腰まで泥まみれ』
2015年にこの歌がカバーされて、臥してたときにYouTubeで見てから、いつか生で聴いてみたいなと思っていた。ので、今回のライブでそれが叶ってよかった。
ピート・シーガーさんが作った歌で、戦争へと進んでしまう政策への批判・反戦歌だと広く捉えられている。
軍曹の助言を無視して渡河訓練を強行しようとした隊長が、おぼれて死んでしまうようすが描かれている。歌詞はほとんど、行動の描写や隊長が命令する言葉で占められているので、字だけ見るとちょっと淡々とした印象を受ける人もいるかもしれない。
でもちとせさんの歌声で聴くと、すごく不気味で不穏な感じ・嫌な緊張感が表れてくる。気持ちがざわつく。けど聴いちゃう。楽器がかっこいいのもある。
命が削れてもいいやぐらいの気魄。伝えたいんだろう。
奄美のグインは、人によっては受け付けないことも多いだろうけど、私は隣の沖縄と関わりがあることも影響してか、好き。正直なところ、伝えたい気持ちが強すぎて、力んでしまってるのかなと思うこともあるけど。
それでもやっぱり好きだし。それに15周年ライブではそんなこともなくって、のびのび歌われてたように感じる。なのにすごい気魄だった。耳・頭・心が直接揺さぶられるような、声に飲み込まれるような。
上の命令には逆らえない軍隊の雰囲気、軍社会。
進言に耳を貸さない隊長。
隊長は、隊員の誰もがここを渡ろうとすれば溺れ死ぬと思っているのに、進めと言い続ける。
昔渡れたんだから大丈夫だ、渡るんだ、なに怖気づいてるんだ。いやいや、昔は大丈夫だったとしても、それは昔の話であって。目の前の川の現在のようすを最優先で考えなければ。
「これを聞いて何を思うかは あなたの自由」
旧日本軍の話とかいろんな軍隊の話とか、それは想起するし、戦争へ向かう国に警鐘を鳴らす歌であることは間違いない。けれどこれは現代の我々の日常、身近なところにも重なる部分がある。
「いいからやるの、進めるの、突き進むの」「頑張りがぜんぜん足りない」「まだ甘い」
泥船とわかってて乗りたいやつがどこにいるもんですか。
でも、わかってても乗らざるを得ない・従わざるを得ない空気が主流だし、それは私だってそう。だって命令なら守らなきゃ。命令の意味無いし。
そんな空気が主流の社会はよくないけど、今のわたしはそれを主に思ったのではなくて、判断や指揮をする者は非常に大きな責任があるということ。下は、従うか(刃向かったうえで)やめるかしかない人がほとんどなのだから。
もちろん、反対を押し切って強く引っ張っていかなきゃいけないことはある。が、変な方向に引っ張ってしまったら悲惨な結果が待ってる、からこそ、命令は難しい。頑なに変えないのもだめ、変えすぎるのも翻弄されるからだめ。人の話を聞かないのもだめ、左右され過ぎるのもだめ。
そう考えると、上に立つってすごく困難なことだ。初めからそんなことできる人なんていない。小さな指揮や命令で成功したり失敗したりしながら、少しずつなっていくものだと思う。平社員がいきなり社長になることは極めて少ない。次長課長部長という段階はその積み重ねのためにあるものでもあろう。
でも、上に立ったなら、「下が乗りたくないと思いながらもいやいや乗る船」を造るのは一つでも減らすことを考えてほしい。と思う。それが出来たら苦労しないのは重々承知だが、その苦労の代として給料も他より高いのだろうから。
翻って自分のことを考えてみる。
自分にとって重要なことは、泥まみれで抜け出せなくなって溺れ死なないように、自分で判断しなきゃ。
その際はやっぱり、 自分が思った「進め」を頑なに変えないのもだめ、変えすぎるのも翻弄されるからだめ。軍曹の話を聞かないのもだめ、左右され過ぎるのもだめ。下の者に大事なことって、指揮する人と一緒なんだな。
「進め」と言われたからって、ほいほい進んでいったら死んでしまわないか?
全部に対してそんなこと考えてたら、正直疲れるし時間かかるし生活できなくなる。けど、重要なことぐらいは。
隊長だけ死んでいった。
他のたくさんの隊員が巻き添え食らわなくてよかった。