くらしにある御願(うぐゎん)
わたしの祖父母の家は沖縄本島にあって、小学生の頃は夏休みをほぼフルに使って遊びに行っていた。宿題も着替えも、海水浴セットも、ぜんぶぜんぶ、大きな段ボールに詰めて。
それだけ長く遊びに行っていると、その間に「旧盆」を迎えることがある。
先祖をお迎えし、たくさんのごちそうを霊前に供えて、あの世でお金に困らないようにと「うちかび」を燃やしてお送りする旧盆は、小学生のわたしには、おいしいごちそうが並ぶちょっとわくわくするもので、最後に「おじいとおばあのお父さんお母さんと、そのまたお父さんお母さんと…」に手を合わせる行事、という認識だった。
正直なところ、当時は祖母や母の見よう見まねで目を閉じたり薄目を開けたりしながら「うーとーとぅ」しているだけ。
そんなわたしも大きくなって、中・高校生、そして大学生になると、沖縄に来るたび、「来たよ」と報告するため、旧盆でなくても自然と手を合わせていた。というより、わたしが行くと祖母が必ず「うーとーとぅするさあ」というので、隣に座って一緒に御願(うぐゎん)をしていた感じ。
このとき、もちろん先祖のことはまじめに考えていたし、真剣に「来たよ」とも思っていたのだけれど……
今回また沖縄を訪ねて、26歳で行ってみて、今までの感覚が音を立てるほどがらりと変わった。
なんで「来たよ」と報告するのか、
どうして日常的に手を合わすのか。
自分が今ここにいることに対する先祖への感謝を表すため。
ひとことで表そうとすると、これ。
墓石や仏壇、霊園の宣伝にありそうな文言だけど、ほんとうにその通りだと思う。
感覚が変わった、というか、御願をすることへの理解が深まり、腑に落ちたきっかけは笑っちゃうくらい些細だった。
昨日の夜。
祖父母の家に着いて、入浴しようと洗面所に向かった。
引き戸を開けると、わたしのためのパジャマ置き場が設けられていて(といってもタオル掛けの前にかごがある程度の簡素なものだ)、祖父の字で養生テープにわたしの名前が書かれているのを見た途端だった。
ああ、わたしは、祖父母が母を育て、父と出会ったからいるんだな。
祖父母は、パジャマ置き場を作って名前を書いておいてくれるくらい私を大事にして、来訪を楽しみにしていたんだな。
それらがぶわっとわたしを駆け巡って、急に、脈々とつながってきた「家」を強烈に意識した。
そんな名家ではない。細々と続いてきた、一市民の家。
でもたしかに、つながれてきたからわたしがいる。
それは、最近気持ちがまいって滅入って、何が楽しくて生きているんだろう?なんてもがいていた自分に、少しの意味をくれた。
この家をつなぐために、日々どうにかがんばって生きよう。
継ぐって程仰々しくない、つなぐ。細くてもつなぐ。
家をつなぐ一員となって生きるって考えたら、苦しいことにも少しは持ちこたえられるかも。
なぜ、このタイミングでこんなことを思ったのだろう。
確信はないが、80歳を迎えた祖父母の2つの小さな背中を見て、
いのちを考えたからかもしれない。
せめてあと20年は元気でいてほしい。
3世代の糸が同時に存在するつなぎ目の時間は、なるべく長くあってほしい。
椎名林檎『不惑の余裕』から「人生は夢だらけ」
40歳だって!不惑の年。そして、デビュー20周年。
私が物心つきはじめたときから、この人はステージに立って、歌って魅せて、「椎名林檎」で居続けていたということだ。
私が彼女の曲や東京事変の曲を聴き始める前には、あるいはそれからも、活動を休止したり復帰したり解散したり、結婚したり出産したり離婚したり、そして、見せはしないいろんなことがあったんだろう。
「丸の内サディスティック」や「修羅場」や「本能」は、聴きはじめた学生時代には、すこし大人向けに感じて私の気持ちはざわざわしていた。けれど今やっと、よい意味でふつうに聴けて、何回も聞きたくなるような。
ぶっとんだ格好や独特な歌詞、でも喋るとえらく丁寧で面白い人。今林檎さんに抱いているのはそんな印象だ。
かっこいいと思う。中身を発信し続けられるエネルギーを授かって、それを大事に自分で育ててきた人なんだと思う。
私は、彼女の歌には「男と女」系と「日常しんどい、けどどんな形でもくらいついて生きてこうぜ」系があると思っていて(ちょー乱暴な分類だから熱心なファンの人に怒られちゃいそうだな(笑))、特に後者が好きだ。
曲で言うなら、「自由へ道連れ」とか、「幸福論」とか、「獣行く細道」とか、変化球で「やつつけ仕事」とか…まだまだある。ただの羅列になっちゃうからやめとく。
40歳のお誕生日にさいたまスーパーアリーナで生林檎歌を聴けたのは、まさしく至福だった。たくさん歌ってくれた中でいちばんこみ上げるものがあったのは、意外にも「人生は夢だらけ」だった。自分でも、「意外にもってなんだよ」と思うんだけど、とにかく意外だった。だって、「やつつけ仕事」とか、「神様、仏様」とか「雨傘」とか、はたまた「積木遊び」とか、自分でも好きだと自覚してるものも歌ってくれていたから。
なんで「人生は夢だらけ」で涙したんだろうと考えたとき、いまの林檎さんの歳で歌ってくれたことも大きいのかなと思い当った。私は年齢を重ねることを怖がっている節があって、
「これからどうなっちゃうのかな」
「今でもものすごく疲れるのに年齢上がって体力落ちて来る中で子育てできるのかな」
「記憶力も落ちてくるだろうに、若い人に混じって今の40代や50代の人のように働けるのかな」
なんて。みんなには、先のこと考えすぎって笑われるなぁきっと。
こんな時代じゃあ手間暇掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた
きっと違いの分かる人は居ます そう信じて丁寧に拵えて居ましょう
こんな時代でも、
さきに不安があっても、
きっとどこかに分かり合える人は居るのかな。
そういう人たちと、ゆっくりゆっくり関わりあえたらいいな。
そう信じて丁寧に拵えて居ましょう
ほんとに、「夢だらけ」なのかな。
林檎さん、あなたより10数歳年下の後輩は、まだ泥の中。沈みそうでもがいています。
あなたの歌を聴いて、酸いも甘いも受け止めて、必死に、たまには楽しく過ごしたい。
#椎名林檎 #不惑の余裕 #人生は夢だらけ
尾形真理子「自惚れ母娘」
「あの人、わたしが好きだから」
あの人、わたしのことが好きだから。
あの人のこと、わたしが好きだから。
どちらの意味も入っているのだと思う。
結婚して何年も経って、子どもが大きくなってもそういう風に言えるって素敵だ。
自分がよい状態でいることが、相手にもよい影響を与えると信じられること。それは、このわたしが、相手がプラスになるきっかけになれるわけない、と自分を卑下していてはできない。
相手のためにもキレイにならなきゃと思う心。健気で、適度な自己肯定感があって、かと言って自意識過剰な印象も受けず。目指したくなるほど絶妙なさじ加減だ。「私」がこの母のように生きたいと思うのも、わかる気がする。
キレイを磨くことは、自分を元気づけることも知っている。
化粧やおしゃれをすることは、化粧は特に、女性にとってある種の自己満足となっていることも多かろうが、いいのだ、それで。だって自己が満足してるんだもん。満たされているから、元気づけられる。
ちなみに、世の中の女性は(勝手に断定してしまうけれど)、化粧がキレイにキマッて、さらに彼氏や旦那さんに褒められたとき、二段階の満足を得ている。
だから、化粧がうまくできた時点で、ひとまず満足なのだ。
そうそう、化粧といえば。
化粧をきちんとできるかどうかを元気のバロメーターとしているわたしは、そろそろ年齢的にも、いくら調子が上がんなかったり疲れが溜まってたりしても、最低限の化粧はすべきだと頭では考えるのだけれども、なかなか実行できていない。
おかげで、目の大きさが日によって大きく違う。早急にどうにかしたい。朝、あと10分早く起きればいい話なのだけれど。
尾形真理子「好きしかない恋なんて」
「季節の変化の強迫観念みたいなもの」か。
たしかにある、けど、いま、わたしにとってそれはよいように作用している。
行動のきっかけとなるもの。
よい作用と思えているのはきっと、強迫観念にするかどうかの取捨選択がうまくできているからだ。
初詣は行きたい。桜をみるために時間をとるのは儚いやら淡いやらで悲しくなるからやらないけど、ほかの用で外に出たときにはふらっと見てたい、夏に海じゃなくてもいい、海は夏だけじゃなくてもいいかな。
旅は、どこに行くか、も、誰と行くか、も、何をするか、も大切な要素で、欲張りな自覚はあるけど決めることがたくさんある(という強迫観念かもしれない。)。
何をするかはほんとうに幅広くて、ぐーたらするために早くから宿に入るときもあれば、どうすれば一カ所でも多く回れるかを真剣に考えることもある。
食べて呑んで、旅のこともそれ以外も関係なく喋る。
私にとって、旅は楽しく真剣に取り組むもの。でも特に疲れないので、今のままで今のところはよしとする。疲れているときはぐーたらを計画すればよいのだし。
今日も楽しいけど、幸せではない
楽しさは幸せの栄養素のうちのひとつだ。だから、ほかの栄養素もないと「幸せ」は満たされないだろうし、おそらくほとんどの人が完全には満たされていない。楽しさ、やすらぎ、わくわく、お金、うれしさ、どきどき感。もちろんほかにもまだまだある。人によって配合は異なるけれど、自分に足りてないと感じるものを埋めようと動き、働き、買えるものは買い、何かを積み重ねる。
そうして、みんながんばるけれど、きっと、幸せのグラフは100%にはならない。
じゃあだめかというとそうではなくて、幸せになろうと、100%にしようとがんばる軸とは別に、「足るを知る」軸もある。「今がじゅうぶん、ありがたい」という心構え。
これらはふたつ同時に存在していても全然おかしくないし、「足るを知る」があった方がよい。
そうでないと、いつも満たされなくて、悲しくなってきてしまう。
それから、「幸せって自己責任」って、ぐうの音も出ないほどその通りなんだけど、
わたしはどうも自己責任ということばが苦手なので、
幸せって自分の努力と、運と、縁 くらいに思っていよう。
あわよくば、人と関わることによって、自分も相手に楽しませてもらって、相手からも楽しませてもらえる瞬間があると、うれしい。
自分の人生が「期待以下」だからと言って誰のせいにもできないし、誰かに「楽しませて」なんて、お願いできるわけもない」
そうだなぁ。
どういう期待をするか。この設定がすごく難しい。これ。わたしの今の課題はこれなんだ。
足るを知る軸と、幸せを求める軸のちょうどよいバランスを探っていくと、出てくる気がする。
さぁ、わたしはわたしの期待をどう設定してゆくか。
#ルミネ #ショートショート #尾形真理子UQIYO feat.元ちとせ 「ship's」
よけいな音が聞こえなくなる水の中。
そんな感じ。
近ごろは、水を想像できるようなうたが好きだ。
浄められるような。
重くなくてすごくするする流れているけど、よく聴いてみるといろんな音が混ざっていたり、出てきたり、すごく凝ってるなと思う。
「さっきまでの君は 今と比べて別人
こんにちは さようなら Hello good-bye」
瞬間瞬間で生まれ変わる。
へこんでも戻す。汚れても消す。溜まっても吐き出す。
この曲をくぐれば、できる気がする。
消える、見えなくなる。あしたにはまた見える。出る。
新月、月。
「いままで いまだったと いままだ おもってた
いまという いまはふかく いまは いまのままで でも
いままで いまだったと いままだ おもってた
いまという いまはふかく いまは いまのままで でも」
いまって、なんだ?いつだ?
いままで、と言うとき、わたしは過去に目を向けている。
いまのままで、と言うとき、わたしはいまに目を向けて、 いままだ、と言うときは未来に目を向けている。
まで、ままで、まだ。まだ、ままで、まで。
ままでのさっきはまで。まだのさっきはままで。
までのさっきは、どこかにあるのかな
糸 について
中島みゆきさんの「糸」は、カバーも多く、また、結婚式で使う人も多いらしい。
のだけれど。私にはそれがどうもしっくりこなくて、いや、結婚式で流すのはよいのだけど、「結婚式のみ」ではないと思うのだ。
超個人的には、「結婚式 にも」くらい。
よく取り上げられる「縦の糸はあなた 横の糸は私」のその先は、「織りなす布はいつか誰かを 暖めうるかもしれない」あるいは、「いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」
夫婦になるときのためだけの歌なら、「誰か」なんて距離のあることば、つかうだろうか。もっと二人に焦点が当たっていた方が自然な気がする。
私には、同じ目的を達成するために集まった人、出会った人、同志、を表す歌に聞こえる。
自分たち(の仕事)が、社会のどこかでささやかながら役に立ったり作用したりする風に聞こえる。
もちろん、その大きな枠組みの中に、結婚や夫婦も入っていてよいとは思うけれど。
とかそんなことを考えていたら、友人Kからすごくよい話を聞いた。ものっすごくよいのでテンションが上がる、くらいすてきな話だった。
ひょんなことから、友人Kはある日上司と一緒にカラオケに入ったらしい。
中島みゆきが好きだという上司Sさんは、「糸」についてKに話し始めたそうだ。
「あれ、結婚の歌じゃないと思うんだよね」(もうこれをKから聞いたわたしはこの時点で若干興奮。似た考えの人がいる…!)
「糸」に出てくるしあわせって、「仕合わせ」って書くんだけど、仕事を合わせるって字じゃん、と続ける上司Sさん。
だからさ、仕事とか職場とか会社での関係のことだと思うわけ。
でね、わたし今まで「友達」って感じの人、いなかったんだよね。
知り合いも多いし、関わった人も多いけど、なんというか、感覚がぴたっとくるというかしっくりくるというか。
そういうポジションが、Kなの。自分でも、出会うことはないだろうなって思ってたけど、この歳になって見つかるとは考えもしなかったよ。
縦と横の糸みたいな。
うれしそうに話すK、を見てひたすらほっこりする私。
ちなみにその後、女上司SさんはKのために糸を歌ってくれて、それがまた上手かったらしい。K、感涙。
久しぶりに聞いた、最初から最後までひたすらいい話。そして私は、Sさんの「糸」に素直に感動できるKの感性が好きだ。
仕事や職場の中で、感覚の合う人を見つけるのは難しい。
目標は共有していても、その時々での判断が同じでも、それが必ずしも感じ方まで似ていることにはならない。
無論、目標や判断において足並みがそろえばじゅうぶんうまくいくし、それすら割れることのほうが圧倒的に多い。
そういう中で、感覚の合う人を見つけられた、合う人と近いところに配属された縁は、とても大きなよろこびであり、仕合わせとなるんだろうな。
よみがえる沖縄1935@日本新聞博物館 ほか、つらつらと
沖縄戦で焼失してしまったものは数多くあって、写真もそのひとつ。
ふらっと、企画展に行ってきた。
「よみがえる沖縄1935」
戦争が始まって、そして終わった。その10年前。
朝日新聞で10回連載された「海洋ニッポン」なるコーナーの取材資料として、277コマのネガが見つかったらしい。大阪本社の移転?建替え?のために、倉庫を整理していたら出てきたそうだ。
1935年。私の祖父母が生まれる3年前。昭和10年。
当時は、自分たちが「ニッポン」とされていることに馴染んでいたのかな。それとも、なにか思いを抱えていたのかな。
サバニ造り。それに乗って海へ出て行く漁師。サメ取り名人。今も残る路地で、83年前に唐傘をさしている女性。洋装と和装の女性がちゃんぷるーみたいになって那覇を歩いていたり、そうかと思えば竹かごに食べ物を並べて座るおばあがやや訝しげな目線を送っている。カメラを向けられて、何かねえ?と思ったのかもしれない。それから、サトウキビ畑で笑う少年。
糸満の漁や那覇の市場、コザあたりの黒糖づくりの写真が展示されていて、中南部中心だったけれど、2枚だけ北部の写真があった。万座毛と、名護高校の生徒が写っているもの。自転車を押す何人かの女学生。
祖母は名護高出身なので、こんな風に過ごしていたのかなあと思いながら、しばらく眺めた。
そして観終わったわたしは、北部の写真がちょっとだったのをちょっと残念に思ったり、昭和10年の写真を探すのにこんなに苦労するほど何もかも焼かれたんだなあと大変悲しくなったりしながら、沖縄に興味を持つきっかけとなった本を思い出したんだけれど…
でもあの本、たくさん読んだからって処分しちゃった気がする。
小学3年生のとき、夏休みの推薦図書一覧に載っていた『シマが基地になった日-沖縄・伊江島 二度目の戦争』という本。サブタイトルの「沖縄」を目にして、おじいちゃんおばあちゃんのところの話だ、とわかって買ってもらった。
3年生のわたしがそれを読んで真っ先に思ったことは、アメリカこわい、だった。
この時はまだ平和祈念資料館にも行ってないし、歴史の授業もなかったから日本軍についても全然知らない。なんでブルーシールとかスパムとかコンビーフハッシュとか、みんなふつうに受け入れて食べてるの?こわい国のものじゃん、と思っていた。
本を読んだ3年生の夏休み、祖父母の家に遊びに行った。隔年で行っていて、その年は行く年だった。わたしが読んだ本のことを話すと、祖父母は特に表情が強張るわけでもなく、ただ戦時中と幼少期の記憶を語ってくれた。
山に隠れるようにして生活してたこと。竹やりの訓練があったこと。B‐29の音。
それと同じくらいかそれ以上に、終戦後のことも話してくれた。
祖父の父が足を爆弾にやられて義足になりながらも、車を運転して商売で生計を立てていたこと、車に基地で働く人を乗せてあげたりもしていたこと。人は左、車は右 と教わったこと(うちの母は今でもとっさに人が右か左かわからなくなるらしい)。B円を見せてくれたり、ルーズリーフに簡単な年表を書いてくれたり、例の本の舞台となった伊江島に連れて行ってくれたり。
決して押しつけがましくはないけど、たくさん話してくれた。
教科書で学ぶより先に、身内から、しがない庶民というか「ふつうの家庭のふつうの子ども」がどんな風だったかを聞けて、今思えば、戦争という根深くて難しいものについて、とっかかりとしてすごくよい知り方をしたんだなあ、と思った。